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(1)政治の動き (@)蝦夷征討と平安仏教の開宗 桓武天皇が行った政策で「平安遷都」とならぶもう一つの大きな政策は、東国の完全支配でありました。現在の東北地方は縄文時代が遅くまで残っていた地域であり、大和朝廷以来歴代の朝廷は、東北地方の支配に、征伐と宣撫の硬軟併せ持った対策を行ったきました。服従する東国の民を俘囚(ふしゅう)とよび、反抗する民を蝦夷(えみし)とよび区別して、俘囚からは朝廷の 高官に取り立てるなどして宣撫工作を行ってきました。 こうした長年の課題を一気に決着をつける政策に転換したのが桓武天皇でした。渡来系の東漢氏の一族の坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東国を平定しました。 さらに、国家鎮護のみを願う奈良仏教(南都六宗)はしばしば政治に介入するようになり、朝廷と仏教の関係を再構築することが重要な課題でした。25年ぶりに遣唐使を復活させ、奈良仏教に対抗できる平安仏教を新しく興させるため、「最澄」と「空海」を唐に送り込みました。帰国した二人は宗派をたてることを朝廷から許され、”天台””真言”の二宗を開き、それぞれ名が知られるようになるにつれて、各地から二人を慕う僧侶が集まって弟子が増え、比叡山寺と高野山は南都六宗をしのぐほどの大きな勢力をもつまでになりました。 (A)摂関政治(天皇の外戚となって摂政・関白の位を独占し、政治の実権を握る) 日本史上において、天皇家と歩調を合わせて「万世二系」ともいうべき発展をとげてきた貴族の中の貴族である藤原氏、始祖・鎌足から不比等、良房らを経て道長にいたる摂関藤原氏の栄華の歴史が進んでいました。一時、旱魃・地震・火災・疫病・台風などうち続く災害に悩んだ宇多天皇は、菅原道真を登用して、天皇親政の実現に向け政治改革を断行しましたが、藤原家の陰謀により挫折しました。 (B)武士の登場 平安時代も中期になり律令制度の限界が徐々に近づき、京の都は、盗賊が横行し餓死者が市中の至るところに放置されるといった荒廃ぶりであり、また地方も盗賊が跋扈し、瀬戸内海では海賊が海を荒らしまわっていました。朝廷の支配力が弱体化し、さらに不安定な気象や疫病の流行も加わり、人々は不安におののいていました。各地の国司・受領(ずりょう、国司の別名)などの有力者たちは朝廷を頼らず在地勢力を結集し、武力でもって自らの権力や領土を守ろうとして、戦いを繰り返すようになり、それぞれが軍事増強に努めていきました。 その時勢は「兵(つわもの)」と呼ばれる武士の祖を生み出し、坂東で台頭してきた平将門や瀬戸内海の海賊・藤原純友などが反乱を起こしました。 朝廷は、敵対する仲間を味方ににつけ追討の官符を授け、2つ乱を無事終息しましたが、高級官僚に権益が集中する律令政治が破綻しつつあることは、もはや誰の目にも明らかでした。 (W)栄華を誇る藤原家 しかし、朝廷内は権力争いが繰広げられ、藤原氏が再び勢力を盛り返し摂関政治が復活し、藤原道長の時代に栄華の頂点にありました。栄華を極めた道長も寄る年波には勝てず、死期を感じ取った道長は出家し、死後極楽浄土へ導かれるようひたすら浄土信仰へ傾斜していきました。 父・道長から受け継いで時の関白・頼通(よりみち)はこの世の極楽浄土というべき壮麗な寺院「平等院鳳凰堂」を建立しました。重厚な中堂を中心に、左右に翼廊をのばし、後部に尾廊を配したその姿が、あたかも鳳凰(孔雀に似ている想像上の神の鳥)が両翼を広げているように見えることから、後世「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。現世の栄華を極めた者は、来世でもまた極楽浄土へ行くことを希求したのでした。 (X)律令制度の崩壊 しかし栄華を誇った藤原家も巨星・藤原道長を失って摂関家往時の力はなく、坂東平氏の平忠常の反乱に、同じ武門の源頼信に成敗させました。もはや朝廷に紛争を鎮圧する力はなく、貴族社会の終焉がすぐそこに迫り、時代の主役の源氏と平氏が表舞台に登場してきました。 時を同じくして、都周辺では寺社勢力が増大し、荘園を拡大して僧兵を養い、勢力を拡大していました。奈良の興福寺、京都の延暦寺(南都北嶺)の強訴(無理を道理として強引に押し通す)はたびたび朝廷を悩ませました。 743年の墾田永年私財法以来新田の開発が進んだが、一方でそれが貴族や寺社などの所有(荘園)になり、律令制度の基盤である公地公民制が揺らぎ、朝廷の力を弱めていきました。平安時代の国司は私財を増やすことに励み、租税も国司が勝手に決め、公民である民を国司の私用に使い、私腹を増やし、中央の高級官僚に賄賂を贈るといった、摂関政治の弊害が地方から目立ち始めました。 農民は、国司の悪政から逃れるため、朝廷の権威が及ばない寺社に、自ら進んで開拓した土地を寺社に寄進するようになり、寺社の勢力は増強していきました。もはや寺社は修行の場から生活の場になり、奈良時代に鑑真和上を唐から招聘して受戒制度を確立しましたが、平安時代の中期には東大寺などの官寺が勢力の拡大を図るため僧侶が不足し、律令制度で固く禁止していた、自分で得度(とくど、髪をそり僧となること)して僧になる私度僧(しどそう)を認め、僧侶の世界もまた堕落していきました。いたるところに律令制度の綻びが目立ってきました。 (E)源平時代の幕開け 朝廷の支配下にある東国の民(蝦夷)は俘囚と呼ばれ、彼らは豊かな東北を舞台に独自の勢力を養っていました。中でも陸奥(むつ)の安部氏の勢いはめざましく沃野である奥六郡(岩手県中央部)を支配していました。1051年安部頼時・貞任親子(さだとう)は横暴な国司に対し反乱を起こします(前九年の役)。東北の利権を狙う鎮守府将軍(ちんじゅふ、陸奥に置かれた軍政府で大宰府と並んで二府と称される別格の官庁)源頼義・義家親子は、安部氏の反乱を口実に征討に向かいますが、戦いは長期化しましたが(実際は9年ではなく12年かかりました)、頼義に滅ばされました。 この戦いで有名な大将同士の和歌の応酬の伝説があります。戦いに敗れ衣川柵から脱出しようとしている貞任に義家は「衣のたてはほころびにけり(衣川柵は衣がほころんだようにボロボロになったぞ)」と呼びかけ、貞任は「年をへし糸のみだれのくるしさに」と上の句を返しました。 前九年の役から約20年後、安部氏滅亡後奥州に勢力を広げていた清原一族が内紛を起こし(後三年の役)、陸奥守(むつのかみ、知事)兼鎮守府将軍「八幡太郎」源義家が征討に向かい、奥州の藤原清衡(きよひら)を見方につけ、また関東の武士たちがこぞって援軍に駆けつけ、3年かかった戦いを終息させ、武士の棟梁としての地位を確立しました。 そして、奥州は藤原清衡(きよひら)が清原一族の所領を継承し、平泉(岩手県平泉町)の地に仏教都市を築いていきます。源頼朝によって滅ばされるまでの約100年間、豊富な砂金と良馬をバックに、十三湊(とさみなと、青森県市浦村十三)拠点に大陸の北方民族や中国と独自に交易をして財を蓄えっていき、中尊寺や毛越寺(もうつじ)、無量光院(むりょうこういん、宇治の平等院を模した)など壮麗な大寺院を建立し、その中は平安仏教美術の粋を集め、金箔で飾られた仏像、蒔絵などで祀(まつ)られ、京に次ぐ大都市へと発展させていきました。そして3代目秀衡の時代には奥州は京に充分対抗できる一大勢力へと成長し、北の独立国家として絶頂期を迎えます。 (F)院政(天皇譲位の後、上皇(じょうこう、譲位後のてんのう)または法王(ほうおう、上皇が出家した時の称)が実際の政治を執行することで白河上皇が院政の始め)の始まり 藤原道長の死後摂関家を独占していた藤原氏が衰退し、後三条上皇による藤原氏排斥によって、摂関政治は急速にその求心力を失い、後三条上皇の跡を継いだ白河天皇は幼い我が子に譲位し、自身が上皇となって院政というそれまでにない天皇による新しい専制君主政治をスタートさせました。 台頭する武士の力を、源平を操ることでその勢力の均衡をはかり、また南都北嶺など急増する有力寺社の武力による強訴や寺社同士の紛争に対して、武士を重用し武力で制圧しました。 源氏は義家の死による内紛から弱体化し、 その子義親が粗暴で白河法皇は源氏の勢力を削ぐ大義名分ができ、平正盛に追討の院宣を与え、正盛は征討しその功により院を守る新たな武家勢力としてデビューしました。 全国に荘園が出来ると年貢を都に運ぶため水運が盛んになり、特に瀬戸内海の水運は飛躍的に伸びそれと共に海賊の横行が増え、孫の平忠盛に海賊討伐の院宣がおり、忠盛は任務を成し遂げると同時に、瀬戸内海の海賊を掌握し、また安芸や備前、但馬守等を歴任し西国を勢力下におき、対宋貿易の利権を一手に握り武力・財力とも拡大していき、武力・経済の両面で院政を支え、ついに「殿上人」となりました。 平氏が貴族社会においても名門に列せられました。一方源氏は関東地方を中心に同族間の争いが続いていますが、その中において源義朝が若きリーダーとしてその勢力を拡大していきました。 (G)平氏の栄枯盛衰 新しい専制君主政治をスタートさせた白河法皇は、57年間3代の天皇に及んだ独裁政治も法王の死とともに終焉を向かえ、その弊害が皇室内部の権力闘争を生み、また摂関藤原家も内部対立が表面化し、武士勢力の源平両勢力をも巻き込んだ三つ巴の争いになり(保元・平治の乱)、この大乱を制した平家の棟梁・平清盛が院の近臣勢力も完全に除去し、後白河法皇と二条天皇の2君に仕えてバ ランスをとり、太政大臣となり覇権を掌握します。 平氏の領地も全国の6分の1を占めるまでになり、全てが武力によって決定されるようになり、貴族はもはや時代にそぐわない存在となり、新たに武家が政治を動かすようになってきました。 しかし、後白河法皇は、巻き返しを図るべく平氏の追い落としを画策し、ついに清盛は後白河法皇を幽閉し院政を停止しました。クーデターの勃発で、武人による始めての武家政権を樹立しました。 実権を握った清盛は平家一門の者を各国の受領(ずりょう、国司)に任官し、日本の知行国の過半数は平家一門のものとなりました。“平家にあらずんば人にあらず”と豪語する者まで現れました。 この強引なやりようは各地に反平家勢力を生み出しました。また、清盛の立てた武家政権は貴族化し、武士たちが求めた政権ではありませんでした。 源義朝の子供、頼朝は関東の武士団を糾合して挙兵し、奥州藤原秀衡のもとに身を寄せていた弟の義経が参陣し、この稀代の軍事的天才が源平の合戦で、源氏に勝利をもたらしました。諸行無常、ひとときの繁栄むなしく、平家の栄華は壇ノ浦に没していきました。 (H)初の本格武家政権「鎌倉幕府」誕生 数々の戦功を打ち立てた義経を、稀代の策士後白河法皇は義経に官位を授け昇殿を許すなどして優遇し、兄弟の分断に成功します。 頼朝は、義経が直接後白河法皇から官位を受けたことは、御家人(頼朝と主従関係を結んだ者)の賞罰は武家の棟梁である頼朝が行うことであり、武家政権の樹立を目指す頼朝にとっては弟であっても絶対許すことの出来ないことでありました。 義経の詫びにも耳を貸さない頼朝に兄との対決姿勢を明確にし、後白河法皇より頼朝追討の院宣を受け挙兵を目指して西国へ向かうも失敗し、一時吉野に身を潜め、一転縁(ゆかり)の深い藤原秀衡を頼り奥州の地で再起をはかります。しかし秀衡の病死で状況が一変し、秀衡の嫡子・泰衡の裏切りで舘を襲われ、義経は自らの生涯をその手で閉じました。 一方、頼朝は後白河法皇に武力による圧力をかけ、義経追討の院宣を出させ、義経なき奥州を攻めて傘下に治めました。義経追討を口実に諸国に守護(各国の軍事・行政官)・地頭(荘園・公領を支配する職)を設置し、源平の合戦以降頼朝に従ってきた武士達に守護・地頭職の地位を与え、田地を管理して反別5升の兵糧米を徴収する権限を与え、東国だけでなくこれまで貴族が独占管理していた機内や西国の荘園を、鎌倉幕府が実質的に支配できるようになりました。院の権勢をを最後まで守っていた後白河法皇が没し、1192年頼朝は征夷大将軍に任命され鎌倉に朝廷から独立した幕府を開きました。 (2)仏教の動き (@)貴族のための平安仏教 奈良時代末から平安時代にかけて、僧・最澄が785年に、同じく空海が795年に、東大寺の戒壇で戒律を受けています。そして、二人は、同じ年(804年)に遣唐使の一員として唐に渡りました。 最澄(伝教大師)は、天台宗の本山である天台山で天台宗を学び正統天台の後継者の資格を得て、805年に帰国し、天台宗の宗派をたてることを朝廷から許され、唐に渡る前から修行していた比叡山に延暦寺を建立しました。 一方空海(弘法大師)は、当時の中国の密教僧の頂点に立つ高僧恵果(けいか)に密教を伝授され、帰国して若き日の山岳修行の場であった吉野の奥、四方を深い山々に囲まれている霊地・高野山を密教修行の拠点として、金剛峰寺を建立しました。また京での活動拠点として東寺が与えられ、最澄なきあとの鎮護国家の阿闍梨(あじゃり、師範たるべき高僧)としての活動を期待されました。空海は東寺を真言密教の根本道場と定め、日本で最初の一寺一宗の寺としました。 日本人による初めての仏教の開宗を行ったこの二人は、平安時代の偉大な仏教思想家となりました。”天台””真言”の二宗は、この二人によって始められ、加持祈祷によって貴族社会に急速に浸透していきました。 平安時代の仏教は貴族と一部の人びとの仏教でありましたが、平安時代の約400年間にわたって日本仏教の主流を占めたのでした。 (A)末法思想の広がりや大飢饉による餓死者が続出し、この世より死後の極楽往生を希求 平安時代の中期、律令制度の秩序の崩壊により社会不安が増大し、極度の不浄観や物忌(ものい)みに囚(とら)われ、また仏教が衰えるという予言的な思想が貴族の間に色濃く漂い始めました。釈迦の没後一千年は、正しい仏教が伝えられるという正法、その後の一千年は仏教の教えは残っているが、修行してもなかなか悟りを開く人がいなっくなってしまうというい像法、さらにその後は、仏教の教えがすたれ、悟りを開くため修行する人もいなくなり、破戒が平然と行われ、天災地変・戦争・虚言などが横行するなげかわしい世相となるという末法で、日本では1052年がその「末法入り」の年に当たり、平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて、貴族の間では大いに恐れおののき、仏教者たちも大きな危機意識を抱くようになっていきました。 不浄の地である現世からの離脱(厭離穢土、おんりえど)と、来世の極楽浄土での往生を願う(欣求浄土、ごんぐじょうど)貴族たちは、衆生(しゅじょう、この世の中に生きているすべてのもの)を救済するという阿弥陀を競ってまつり、阿弥陀堂を建立し、建築・絵画・彫刻などあらゆる分野において、華やかな浄土教美術が花開きました。唐の文化に立脚しつつ、優美で繊細な趣きを加えた日本独自の様式が完成しました。京都・宇治の平等院はまさにその極致でした。しかしそれは、現世の栄華を極めた一部の貴族のためのものでした。 平安時代末期に阿弥陀仏を信じ、それにすがって死後、極楽浄土に生まれようとする浄土信仰を説く新しい宗派がでてきました。良忍(りょうにん)は幼いときから比叡山で天台教学や密教を学びましたが、やがて堕落した比叡山を去り、京都大原に来迎院を開創し、一人のとなえる念仏がたくさんの人びとがとなえる念仏が、互いに融けあって往生の機縁(きっかけ)になるとした「融通念仏宗」を開きました。 また、法然も比叡山で学びますが、堕落した比叡山を去り、京都東山の吉水の草庵(後の知恩院)において、在来仏教を自力宗として退け他力宗を唱え、誰でも一心に南無阿弥陀仏を唱えることにより極楽浄土に往生(死後生まれる)できるとの教え(専修念仏)を説き浄土宗を開きました。親鸞をはじめ多くの学徒が集まり、民衆の間に広まっていきました。 (3)文化の動き (@)平安がな(ひらがな)の発明 6世紀に渡来人により漢字がもたらされ、やがて日本人は「多奈波多(たなばた)」「久佐麻久良(くさまくら)」のように、漢字の訓(意味)を捨てて音だけを利用し、「万葉がな」を編み出しました。表意文字である漢字を表音文字として用い、さらに飛鳥時代には漢字の一部をとって「片かな」を編み出しました。「阿」という文字の左の部分をとって「ア」が生まれ、「伊」の左の部分をとって「イ」が生まれました。「片かな」は漢字の訓点(漢文訓読のためにつけた返り点や送りがな)記入や訓釈(漢字の読み方と意味に説明)の注記などに用いられ、男性中心の世界では漢字片かな混じりの文が主流となっていきました。 それに対して、平安時代に登場する「平かな」は「女手」と呼ばれ、後宮(こうきゅう、天皇をめぐる皇后とその女官が住む宮殿)文化の開花によって生み出されました。「以」をくずして「い」とし、「呂」をくずして「ろ」とし、「波」をくずして「は」とする漢字の全体を簡略にした「平がな」を編みだし、和歌とそれに付随する文章の表記体として認められ905年成立の勅撰和歌集である「古今和歌集」によって権威づけられました。 (A)花開く女流文学 紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」そして和泉式部の「和泉式部日記」は、どちらも平安時代の文学作品を代表する作品です。 「源氏物語」は、光源氏という見目麗(うるわ)しいプリンスを主人公とした全54巻の大長編小説で、一般教養や政治、ホラーなどの要素まで盛り込まれ、多数の登場人物たちによって繰り広げられる複雑な人間模様は、その作品を重厚かつ深淵なものにして います。それゆえ「源氏物語」は、時代を超えて人々を魅了し続け、日本文学の最高峰として君臨しています。 一方「枕草子」は、現代でいうエッセイ集で、有名な「春はあけぼの」で始まり、「にくきもの(イヤなもの)」「あてなるもの(上品なもの)」など、「〜なもの」を清少納言のセンスでピックアップするなど、清少納言の心の中を自由に書いたところが斬新で、日本初の随筆文学と呼ばれています。 「和泉式部日記」は、和泉式部の恋愛を歌に詠んだもので、そこに見える奔放さや激しさは、当時の貴族社会でも異彩を放つもので、歌人としては和泉式部の右に出る者はいなかった。 (B)女性のファッション・・・十二単(じゅうにひとえ) 平安時代の貴族社会では、高貴な女性は1枚1枚違った色の衣を重ねていく十二単は、装飾の他に防寒の役割も果たしていました。 (C)仏教文化・・・浄土教美術 貴族たちは、平安時代の中期になると、律令制度の秩序の崩壊により社会不安が増大し、極度の不浄観や物忌(ものい)みに囚(とら)われ、また末法思想が広がり、来世でも極楽浄土での往生を願うようになり、不浄の地である現世からの離脱(厭離穢土、おんりえど)と、来世の極楽浄土での往生を願う(欣求浄土、ごんぐじょうど)貴族たちは、衆生(しゅじょう、この世の中に生きているすべてのもの)を救済するという阿弥陀を競ってまつり、阿弥陀堂を建立し、建築・絵画・彫刻などあらゆる分野において、華やかな浄土教美術が花開きました。唐の文化に立脚しつつ、優美で繊細な趣きを加えた日本独自の様式が完成しました。京都・宇治の平等院はまさにその極致でした。 (D)雅楽(ががく) 宮廷の行事に雅楽は欠かせないもので、弾物(ひきもの)である和琴(わきん)や琵琶(びわ)、吹物である笙(しょう、)や横笛、打物である鼓(つつみ)や鉦鼓(しょうこ、金属楽器)などを使って楽人(がくにん、当時の演奏家で下級役人)が演奏しました。また、上流貴族のプライベイトな集まりにも楽人が呼ばれ演奏することもしばしば行われていました。 |
【用語解説】 ・密 教---真言密教。なかなか理解できない密かな教え、秘密の仏教のことをいいます。これに対して、仏教を言語文字で明らかに説き示された釈尊の教え、すなわち経典なのだとする仏教を顕教(けんきょう)といいます。 仏になる方法(修行)は、密教の修行者が「曼荼羅(まんだら、大日如来を中心に諸仏を描いたもの)」の前に座って瞑想します。最初に曼荼羅にある仏が修行者(我)の胸に入り込み、次に修行者が曼荼羅(仏の世界)の中に入っていくと観ずる、「入我我入」(にゅうががにゅう)によって、私たち凡人が私たちのままで仏となることができるとする教えです。 空海の教えは、吸う息で仏の世界を自分の心の中に取り込み、吐く息で自分を仏の世界に飛び込ませる、呼吸をするたびに、これを何度も繰り返しているうちに、仏と自分が一体になる「仏凡一如」(ぶつぼんいちにょ)となってこの世を生きることになるという教えです。 密教は現世を積極的に肯定し、人間のもつ煩悩や愛欲をあたまから決して否定しないのです。 一方浄土仏教は、自分の力ではとても仏になることは出来ないので、仏の慈悲にただひたすらすがって、仏の世界(浄土)で成仏(じょうぶつ)する(悟りを開く)ことを説きます。自力ではなくひたすら仏の慈悲にすがるため、他力仏教といわれています。阿弥陀仏の慈悲にすがってひたすら救いを求める信号が「南無阿弥陀仏」という称名なのです。したがって、現世における救済よりも来世(死後)における救済を説く教えです。 禅仏教は、誰もが仏性(仏としての性質をもっている)をもっている(大乗仏教)が、ふだんは“煩悩”に取り囲まれて、私たちの心の奥深くうずもれているので、自ら修行(座禅)を積んで自力で煩悩を取り除けば、仏になれるという教えです。 ・源氏と平氏---奈良時代の中期の頃までは律令制度は機能していましたが、墾田永年私財法が施行されて以来、全国いたるところに荘園という名の私領が増加し、これに反比例して公領(皇領)は減少し、必然的に天皇家の収入は、大幅に減少していきました。 一方、聖武天皇は、全国に国分寺・国分尼寺を建立させ、さらに奈良に巨大な大仏を造りました。続いて桓武天皇は、数度にわたる蝦夷征討と、長岡京、平安京と二度も遷都を行い、朝廷の財政は逼迫していました。 第52代嵯峨天皇は、17皇子と15皇女を皇籍から離脱させて、臣籍に降下させました。従来から皇籍離脱・臣籍降下ということはありましたが、早くて第三世(孫)だったのが、子供の世代である第二世まで臣籍降下させ、しかも大量の32名という例はなく、それだけ朝廷の財政が悪化していました。 皇籍離脱・臣籍降下にさいしては、必ず「賜姓(しせい)」が行われ、嵯峨天皇の場合は32名全員に「源」姓が与えられました。その後、通例となり21代の天皇が行い、「源」の姓を与えました。その中で「清和源氏」が最も有名です。また、桓武天皇は「平」の姓を与え、その後4代の天皇が「平」を与えました。「桓武平氏」が最も有名です。もともと両一族は、皇族の地位を離れて臣下となったもので、清和天皇の子孫は清和源氏、桓武天皇の子孫は桓武平氏と名乗るようになったもので、全国いたるところに散らばっています。そして、彼らの子孫たちは、国司などの職務に就いて、任地に向かってそこに土着し、勢力を広げていきました。 |